冒険の書 AI時代のアンラーニング(孫泰蔵 )を読んで

 
過去の偉人と対話形式で進んでいくこの本は、とても読みやすく楽しくあっという間に読み終わった。
 
幸せな人生を生きる上で、また子どもを持ったときの教育について考える上で、非常に有益な気づきを提供する本だった。
 
 

能力教

過去にサピエンス全史という本を読んで、人間が人間たらたらしめているのは、虚構を信じることができる、という点だということを認識して以降、自分がどんな虚構を信じているのか客観的に見ることを心がけていた。
しかし、「能力」というものを虚構としてこれまで認識したことはなく、自分では気づかない間に完全に能力教の信仰していることを思い知らされた。
 
能力教から自由になるきっかけを掴めてとても嬉しい気持ちになった。
 

資本主義と愛

資本主義と愛の関係についても考えさせられた。
 
資本主義は「等価交換」を前提にしている。一方で、愛とは見返りを求めることなく一方的に与えることである。完全に異なる世界観である。
 
資本主義の世界観を、パートナーとの愛の世界に持ち込めば、パートナーとの関係は味気ないものになるだろう。
一方で、パートナーとの愛の世界観を資本主義の世界に無防備に持ち込めば、テイカーから搾取されことになるだろう。
 
そのため、僕たちは資本主義の世界と、パートナーとの愛の世界を行き来する際に、切り替えが求められる。
こうして考えると、資本主義の世界でバリバリと成果を上げているいわゆる ”能力がある人” が、なぜかパートナとの愛の世界では思った結果を出せていないという話も理解できる。
 

子育て

自分に子どもができた際には、孫泰蔵氏とそのお父さんとの関係のような、対等なパートナーの関係を作れることが理想だと感じた。
一緒に物事に取り組み、一緒に悩み考えアイデアを出し合い、一緒に乗り越えていく。その過程でともに学んでいく。
子育てを通じて学べることはとても多そうだ。
 
 

印象に残った箇所

 
ひとつの学校に縛られるのではなく、いろんな学校で好きなように学べたらいいんじゃないか。それも学校単位じゃなくて、あの先生のこのクラス、この内容、という細かい単位で選べたほうがいいんじゃないか。もっと言うなら、学びたいものや人がいちばん集まっている最前線の「現場」や、探求者がいちばん集まっている「本場」で学べたほうがいいに決まっている。
 
 
もし目の前に「不登校児童」がいたら、僕はこんなふうに、その有機と行動をほめてあげようと思います。「おー!学校から自分の意思で脱出してきたんだね!よく決断したね!素晴らしいチャレンジだよ」と。
 
子どもも大人も企業が「遊ばせてくれる」ことを期待してお金を払い、期待が裏切られると「損した」と感じるようになりました。遊びはもはやただの消費になり、人々はお金を払う値うちがあるかどうかを確かめずにはいられなくなりました。
 
「『子ども』の発明とは、大人と子どもの間に線が引かれたことを意味する。同じような分割線は仕事と『遊びの間や『公』と『私』の間にも引かれていった。そしたこの区別こそが人間の生活を貧しくしたのだ」
 
「子どもたちに学習させる前に身に着けさせるものはなにか。それは習慣です。興味や好奇心を刺激することで、学習へと向かう姿勢やよい習慣をみにつけさせることが大事なのです。
 
子どもの差別については人々はいあかわらず「まあ、それはくべつされてもしかたないよね」と考えています。「しかたないよね」。これこそが差別の最たるものなのです。子どもの差別こそ、「人類の最後の差別」だと僕は思います。
 
「原稿の学校教育は、格差の原因が偶然で決まるにもかかわらず、平等な教育という名のもとで子どもたちに順位づけを行い、さらにその順位は自分の努力の結果(責任)であることを押しつける。能力格差はほぼ偶然に決まるにもかかわらず、学校は自己責任論的な格差正当化に大きく寄与してしまっている。
 
人は常に、①「行動してみた」→②「だから、他の人にはなかなかできない良い結果が出た」→③「だから、他の人にくらべて能力が高いと言える」という順番で評価をくみたてています。必ずこの順番でしか認識しないにもかかわらず、そして「能力」の有る無しは、結果論と比較論によって生まれた「フィクション(つくりごと)」でしかないにもかかわらず、多くの人々はそのフィクションを実体として存在するものだと信じてしまっているのです。  なぜか。それは「能力」という概念が生まれるプロセスが、①「行動した」→②「良い結果出た」→③「能力が高い」という順番なら逆もまたしかりで、③「努力して能力を高めれば」→②「きっと良い結果が出るはずだから」→①「能力が高まったら行動を起こそう」という流れも成立するはずだと人々が考えるようになったからです。
 
しかし、逆方向である③→②→①は、必ずしも成り立ちません。能力を高めたからといって、良い結果が出る可能性が高まるかどうかは保証されていませんし、仮に良い結果が出る可能性が高まるとしても、いつ行動を起こせばいいかはいつまでたってもわからないからです。
 
 
現代人はまさに「能力教の信者」です。「能力教」は、ひょっとしたらいまや世界最大級の信仰かもしれません。
 
人間さえも「商品」に変えてしまう資本主義をなぜ人間は選んできたのか。そこには「自由」という、誰もが大事だと思っているものがあるからです。
 
ただし、ここでいう自由には注意書きがついてきます。そあれは、人々が選択の自由を求めることができるのは、価値がフェアに交換される時だけだよ。」というものです。これを「等価交換」といいます。
 
しかし、この考え方は、見方を変えれば「相手が自分の望むものをくれないなら、自分も絶対にあげない」ということでもあります。つまり、なにをするにも必ず見返りを求める心理が働いてしまうのです。交換できるもの、それはすべて商品であり、商品はお金で買えるものなので、文字どおり「金の切れ目が縁の切れ目」となります。
 
「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障がいの有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと私は思います。ーシンイチロウ・クマガヤー
 
環境こそが人間に大きな影響を与えます。人々を「自立」の呪いから解放するには、実は子どものうちから自分の好きなことを追求できる環境に身を置き、まずは自分を満たすのがいちばんと確信しています。
 
人間である限り、まわりの人間を真似しようとする。人はそうやって育っていく。そして、まわりの人間は、自分に与えている。人間は、生まれたときには完全に無力なので、必ずそこから始まる。人は、与えられることしか知らない状態から始まるのである。ーケンジ・サイトウー
 
この世に生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。
 
「立場が大きく異なる者同士が互いにわかり合うためには、それぞれが置かれている立場そうさせる判断基準や論理である『コード』を破ることが必要だ」と言います。  そして、異なるコードを持った人たちが対話を成立させるには、まず、「あなたは何が言いたいのですか?しばらく私は黙って耳を傾けますから、私にわかるように説明してください」と相手に発言権をゆずることが大事だと言います。なぜなら、「お互いを認めるところから出発し、両者がともに認める論理にそって話を進めれば、いずれ私たちは同じ結論にたどりつくはずだ」という姿勢こそ、対話を成り立たせる大前提だからです。」
 
父は僕をいっさい子どもあつかいしないのはもちろん、師匠と弟子のような上下関係も一切ありませんでした。そこにはただ、対等なパートナーとしての信頼関係があるだけでした。「どちらからであれ、とにかく素晴らしいアイデアが出たことを喜び、アプリシエイトし、尊敬し合う最高の関係しかありませんでした。
 
「生きる力なんか身につけなくったって、ちゃんとみんな生きてるじゃん」というあたりまえの事実でした。百歩ゆずって、そういう「生きる力」が必要な世の中だと認めたとしても、子どもたちがそんな社会を変えることができるようにすることこそが教育の使命だと思うのです。
 
 
 
 
 
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