※映画『国宝』公式サイトから引用
「国宝」(監督:李相日)という映画がおもしろい!と友人からのクチコミをきっかけに見ることにした。
印象に残ったのは以下の点。
「血」を重んじることについて
この映画は、最後に国宝に指定される歌舞伎役者の一生を映画いた作品である。
芸術の分野の話なので、べき論でいえばより芸の能力が卓越しているものが引き上げられ、そうでないものが淘汰されるべきであると思う。
しかし、映画の中では、師匠と血縁のない芸の卓越した主人公と、師匠と血のつながった息子でありながら芸は主人公ほどでない登場人物という対比で描かれている。
生物は、子孫繁栄することに長年最適化されてきたことを考えると、血を重んじることは極めて自然なことだと言える。
一方で、子孫繁栄に最適化することが、必ずしも個々人の幸福度を上げる風に作用していたかというと、必ずしもそうではないと思う。
例えば、サピエンス全史でも、農業革命によって人類は定住し、文明を築いた一方で、狩猟採集社会に比べて自由を失い、幸福度が下がった可能性があると指摘されている。
つまり、縄文時代以前の人類のほうが、むしろより自由で、豊かに生きていた可能性があるということだ。
子孫繁栄に最適化された本能やさまざまな無意識に使われることなく、自分自身が望む豊かな人生を生きていこうと、あらためて強く決意した。
目的のために手段を選ばないことに関して
映画では、歌舞伎の世界で上を目指すにあたって、手段を選ばず非道的な振る舞いをしていると見受けられる場面がある。
これを観て、目的のために手段を選ばないことは、肯定化されるのかどうか考えさせられた。
明確にこう、と言うわかりやすいラインを引くことはできないでいるが、ひとつ自分は今後こんな風に考えてみようと思った。
「目的のために手段を選ばなかったかったことを胸を張って話せるか」
もちろん手段を選んでいないので、一定のためらいや、うろしめたさを感じるのは間違いないと思う。
ただ、安直な自己正当化の言葉として「そうするしかなかったんだ」と言うのではなく、落ち着いて冷静にそのことを謙虚に顧みた時に、それでも自分はその決定を胸を張って話せるか。
自分の選択や決定に、常に満足できる人生を送りたいものである。